2020.08.25
今日は、東日本大震災の発生から12年目の3月11日です。
早いもので、あの日小学校低学年だった子どもが20歳を迎えています。生まれたときには既にふるさとは被災地だった子どもも、中学生や高校生へと成長しています。
私たちは活動期間を20年と決めてスタートし、震災から10年の節目には、「2031年 復興のその先を切り開く力を、子どもたちに。」とスローガンを掲げ、被災した地域で根ざして活動を続けている団体を中心に助成を行う方針に切り替えました。ハタチ基金の活動が終了した後も、持続的に子どもたちに寄り添い支えてくれる大人たちが必要だと考えたからです。
今日は、ハタチ基金代表の今村久美と、12年前に岩手県大槌町で被災し現在大槌町で子ども支援をしているハタチ基金卒業生、宮城県女川町に移住して活動をするハタチ基金事務局の女性の鼎談をお届けします。ぜひこの機会に、12年前の震災の日のことを思い出しながら、いま東北の子どもたちにとって何が必要なのかを一緒に考えていただけたら嬉しいです。
ハタチ基金代表 今村久美(写真左)
認定NPO法人カタリバの代表を勤める中、震災直後から被災地に入って自分たちがやるべき支援の形を探した。その中で、被災地の子どもたちを取り巻く課題は継続的に見守る必要があると考え、同年子ども支援団体に呼びかけハタチ基金を設立。“東日本大震災発生時に0歳だった赤ちゃんが、無事にハタチを迎えるその日まで”をコンセプトに、活動期間を20年と定めて、被災した地域で活動する団体に助成金という形で支援を行う。
コラボ・スクール大槌臨学舎 高木桜子(写真中央)
中学1年生のときに被災。自宅は流され、その後仮設住宅で暮らした。中学3年生になった頃、NPO法人カタリバが運営する被災地の放課後学校「コラボ・スクール大槌臨学舎」へ通うように。大槌臨学舎のスタッフに進路を相談する中で、経済的な負担が少なくやりたいことを実現するための道を探す。その結果、学費を自分で稼ぎながら大学に通い、イギリス留学も実現した。現在は、地元大槌町の子どもたちにも学びや挑戦の機会を与えたいと、大槌臨学舎のスタッフとして働いている。
ハタチ基金事務局 芳岡千裕(写真右)
京都出身、宮城県女川町在住。東日本震災が起こった2011年はアメリカに留学中で、帰国後の2012年春、女川町に入りNPO法人カタリバが運営する(当時)「コラボ・スクール女川向学館」にてボランティアとして従事。その後、カタリバの現地スタッフとなり、継続して女川町の子どもたちに居場所と学び支援を行う。現在は、女川町で暮らしながらハタチ基金事務局スタッフとして寄付者のサポートを中心に活動する。今年春に出産予定で、女川町での子育ても楽しみしている。
■必要なのは、物ではなく心の居場所やチャレンジできる機会 被災した高校生から教わったこと
今村:東日本大震災から12年が経ちましたが、当時私はNPO法人カタリバという団体を経営していて、まだ立ち上げて10年ほどの頃でした。私自身もこれからの人生をどう生きていこうかと悩んでいたタイミングに起きた大きな震災で。すぐに被災地に向かい、自分の生活の拠点を東北に移して、自分たちができることを探していきました。
今村:何かをしようと決めて行ったわけではなく、テレビで流れてきた津波の映像を見ているうちに体が勝手に動いてしまったといった感じでしたね。手がかりもなく、仙台、石巻に行った後に女川、そして福島にも行きました。歩きながら何ができるのかを考え続けて。
そんなとき、当時高校生だった1人の女の子と出会いました。その子はとても明るくて、石巻で子どもたちに色んな遊びをしてあげていました。床上浸水までしたおうちで、畳を引っ張り上げてあるような状態の中に遊び場を作って、そこで絵を書いたり、時には外に出ていってゴム飛びで遊んだり。できる範囲の遊びを、小さな子どもたちを集めて企画していたんです。
しばらくして、その子は実は津波でお父さんとお母さんが流されてしまって、まだ遺体も見つかっていなくて、ずっと会えていないことがわかったんです。既に震災から1ヶ月以上が経っていたのですが、自身もそういった状況にあることを話さないとわからないくらい元気で明るい女の子でした。
「保育士になることを目標に高校生活を送っていたけれど、専門学校に行くお金がないから行けないかもしれない。でも、子どもと遊ぶことは今できることだから」と。小さな子たちはもっと悲しいはずだからと、ピンと張るような笑顔で私にずっと話をしてくれて。
聞きながら私は、この笑顔がいつまで続くのだろうかとすごく不安になったんです。まずこの状況で笑顔でいること自体が不自然だと思いましたし、いつか笑顔でいられないときが来るような気がして。立ち止まって考えたときに、この子はどうなってしまうのだろうと。
彼女に出会って、今被災地の子どもたちに必要なのは、物を買って配り歩くことや、食事を一時的に支援することよりも、傷ついた心が折れたときにいつでも弱音が吐ける場所であったり、目標になるような人が身の回りにいたり、ふとしたときに傍にいる人が支えてくれるような自然な環境を作ることが大事であること。心の居場所や成長したいと思ったときにチャレンジができる機会を作ること。そういったことを長い目線でやっていくということが大切なことなんじゃないのかなと、当時すごく感じたのがハタチ基金を立ち上げたきっかけでした。
桜子:私はまさに、そうした大人たちに後押しされたことによって、やりたかったことにチャレンジできた一人です。
震災後は、仮設住宅と学校を往復する毎日で、地域の人と触れ合えるような場所や機会はほとんどありませんでした。そんなときに、大槌町にコラボ・スクールができて、私も放課後に通い始めました。
桜子:そこでは、先生でもなく家族でもない大人や大学生と話す機会が生まれました。
当時私は、被災して家庭も大変だから大学に行くとしても、家から近くてあまりお金がかからないところなら進学できるかなとか、高校を卒業したらすぐに就職をした方がいいのかなどと、自分よりも家庭のことを考えるようになっていて。そんなときに、コラボ・スクールのスタッフが言ってくれたんですよね。もう少し自分のやりたいことをしっかり考えた方がいいよと。
その一言で、自分がやりたいこと、目指したいことは何だろうと真剣に考えました。スタッフの方々も、私が挑戦したいことに沿うような大学を一緒に探してくれたり、金銭的に負担を軽くする方法を見つけてくれたり、私の選択肢を広げてくれて。いつでも相談できるところにいてくれて、傍で応援してくれた安心感は何よりも支えになりました。
桜子:今大槌町の子どもたちが私と同じようにやりたいことを、やる前から諦めることがないように手助けをしたいという気持ちが、コラボ・スクールで働いている理由です。
被災した地域に住みながら肌で感じる 今の子どもたちに必要なこと
今村:桜子さんは大槌町に戻って子どもたちを支えている。芳岡さんは、震災直後から県外から宮城県女川町に移住して11年目。支援の仕方は色々とあると思いますが、なぜ東北で暮らしながら子どもたちに関わっていこうと思ったのですか?
桜子:あれから12年が経ちましたが、時間が経ってもまだ残っている課題があったり、地方都市ならではの問題もあって。その課題を少しでも良い方向へ持っていきたい、そこに関わり続けたいという思いが強くありました。大学進学で一度県外に出たり、海外留学を経て日本以外の場所にも感心はありましたが、どこに暮らしていても大槌町のことが気になって。自分の妹、弟が住む地域でもあるので、少しでも身近な人たちが豊かな生活を送れるようにといった思いも少なからずあります。
芳岡:私は2012年に女川町に初めて行って、子どもたちの学習支援などのサポートをボランティアといった形から始めました。よそ者が突然入ってきたのですが、町の人たちや子どもたちが受け入れてくれて、温かさを肌で感じてこの町が好きになりました。
芳岡:女川町は、震災をきっかけに「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ」といったスローガンを掲げて、復興後の持続可能な町づくりを目指しています。新しいことに挑戦したい人を町を挙げて応援する、女川町の人たちの強い思いがとても心に残っていて、私も一緒に応援したいとここでの暮らしを続けています。
芳岡: 女川町は、津波で何もなくなってしまって、ゼロというか、むしろマイナスからのスタートでした。 そこで諦めるのではなくて、だからこそ何でも挑戦できる、何か新しいことをやってみるチャンスと捉えて動き出す人がいる。私はそんな人たちを傍で応援し続けたいし、子どもたちも色んなことに挑戦できるように、どんなサポートができるかを探っていきたいです。
今村:二人とも、一人の住民として、地域と深く関わり続けながら子どもたちを大切に支えていきたいといった思いが共通していますね。一方で、住民だからこそ感じている課題はありますか?
桜子:ハード面では目に見える形で、町の復興や整備が進んだなと感じていますが、私が中高校生だったときにも感じていたものが、今の子どもたちにもまだ残っているなと。
今村:どんなことかな?
桜子:大槌町の私の周りにいる子どもたちの多くは、頑張ることや、今いるコミュニティや友達の輪から外れて新しいことにチャレンジすること、ちょっとやってみたいことがあっても実際に一歩踏み出してやることがなかなかできないように見えます。
今村:子どもたちがチャレンジしようと思える機会があっても?
桜子:そもそも町全体で、何かちょっとしたことでも挑戦できるきっかけ自体をなかなか生み出すことができていないといった課題感があって。なので、コラボ・スクールに来てくれる生徒に対しては、こちらから新しい出会いや、新しい出来事、将来の選択肢を与えられるような出会いをつくることを、積極的に私たちが取り組んでいかないといけないなと考えています。
今村:大槌町に限らない課題かもしれないですね。でも、そんな思いを持った大人の1人である桜子さんが大槌町で子ども支援をしていて、子どもたちに機会を作っていこうとしていること自体がとても価値があることですね。
芳岡さんは、ハタチ基金の事務局を担当していますが、そこではどのような課題を感じていますか?
芳岡:ハタチ基金が始まった当初は、震災が直接影響した、心の痛みであったり生活の困難さが一番の課題だったと思います。でも、12年が経ち、子どもたちの震災の捉え方が様々で。震災があった日の記憶を持ちながら過ごしてきた子どもの生き方と、直接的な被災の記憶を持たずに過ごしてきた子どもとでは、その後の人との関わり方も大きく違うなと。
今村:どんな風に違っているのかな?
芳岡:記憶が鮮明に残っている子どもは、もちろん辛い思いもたくさんしているのですが、同時に、たくさんの人の出会いがあったことや、たくさんの人の善意に触れる経験も覚えています。そんな子どもたちは、その後の生き方がとても主体的で自分の人生を自分で選択している子が多いように思います。
芳岡:一方で、震災当時赤ちゃんだった子どもや、仮設住宅で生まれた子どもたちなどは、震災そのものの記憶がありません。自分の町が被災地だという認識が薄い子もいます。当たり前のように仮設住宅で暮らして、そこに困難さや疑問も感じないぐらいで。以前の町の記憶はなく、新しい町で暮らしている。そういった子どもたちが、どんな風に地域に愛着を持って、そこで生きてきた人たちを大切にして、地元に誇りを持って生きていくことができるのか。私たち大人がそういったことを感じられる機会を、今は意図的に作っていかないと、自分たちが暮らす町で起こった震災のことが引き継がれていかなくなってしまう。3.11のことを、自分事として捉えて課題意識を持っていけるように伝えていきたいと思っています。
震災が理由で、夢や挑戦をあきらめることがないように
今村:今後はどんな風に子どもたちと関わっていきたいですか?
桜子:私が中高生の頃に、コラボ・スクールのスタッフの皆さんに、挑戦の機会であったり、自分が知らなかった選択肢を教えていただいたことで世界が広がって今の自分があると思っています。今は自分がコラボ・スクールのスタッフとして、できるだけ多くの中高生に関わって、多様な挑戦の機会や選択肢を少しでも与えられたらいいなと思っています。
今村:桜子さんと出会うことで、私も挑戦してみようと思う子どもが増えるといいですね。
私自身、ハタチ基金の代表として今考えたり悩んだりしているのが、いつまで“被災地の子”といったように呼ぶのが正解なのかということ。これはわからないなと思っているんですよね。震災直後から課題は確実に変わってきていて、かわいそうだから支援するというフェーズではなくなってきている。今、子どもたちにとって必要なことは何なのか。今、被災した地域に必要なことは何なのか、常に問題意識を持ちながら、現地で活動をしている子ども支援団体と密に連携をとって考えていきたいと思っています。
芳岡:被災地と呼ばれることに違和感を覚えている方々もいらっしゃるというのは、今の東北の現状としてありますよね。一方で、子ども自身は被災経験を覚えていなくても、2歳のときにお母さんを津波で亡くしたような子が身近に存在しているような状況です。そういった背景を持つ子どもが無事に大人になるまで、そこで寄り添い続ける存在でありたいなと強く思ってます。
今、私はお腹に赤ちゃんがいてこの春出産予定ですが、この状態で震災が起きたときの妊婦さんたちが、あの避難所の体育館でどれだけ心細かっただろうと想像します。12年前に生まれた子どもが20歳を迎えたときに誇りを持って育つことができた、そういった未来を作っていけるように。2031年までハタチ基金は活動を続けますので、ぜひ温かい気持ちで見守っていただけたらありがたいなと思っております。
今村:あのときに決めた20歳になるまで東北の子どもたちを応援し続けるということ。今の課題は当時と変わってきていますが、その変化する課題と向き合いながら何が必要かを考えて、0歳で震災を経験した子たちが20歳になるまでこの基金を続けていきたいと思っています。今後も、東北の現状や私たちの葛藤をお伝えさせていただく機会をつくりながら、残りの活動期間8年間を一緒に子どもたちを支えていただけたらと思っております。
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