2014.01.06
あの日避難所で、自分の気持ちをぐっと抑えて我慢していた少女との出会いが、13年続く子ども支援活動の原点でした。自らも被災した男性は、自分にしかできないことが何なのかを子どもたちから教えてもらったと話します。
ハタチ基金の助成先団体「NPO法人にじいろクレヨン」
宮城県石巻市を拠点に、震災直後から避難所で子どもたちの遊び場づくりを行ってきました。活動を通して見えてきたのは、子どもの生きる力を尊重することが、本当の意味での復興へと繋がっていくということ。そのために、今必要なことは何なのか。代表の柴田滋紀さんに、震災当時の体験や現在の思いについてお話を伺いました。
※インタビューは2023年秋に行われたものです。
石川県の能登半島沖の地震で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
ハタチ基金は震災直後から、東北の被災地域で子どもたちにより添い活動を行う団体に「助成」という形で支援を行ってきました。13年間の子ども支援の歩みが少しでも北陸の被災地の方々にも役立てられますように。そんな思いを込めて、今も活動を続ける助成先団体のインタビューをお届けします。
NPO法人にじいろクレヨン 代表 柴田滋紀さん
画家。お絵かき教室「ゴコッカン」運営。石巻市出身で自身も被災。避難所生活を送る中、2011年3月22日に「石巻こども避難所クラブ」を結成。子どもたちが思い切り遊べる場づくりを行った。その後「にじいろクレヨン」と改称し、ボランティアとともに仮設住宅で子ども向けのレクリエーションを開催するなど、子どもを主体とした地域のコミュニティづくりを行っている。現在は市内に拠点を構え、幼児や放課後の小学生など、どんな子どもでも通える居場所をつくっている。子どもたちからの愛称は“おんちゃんししょう”。
きっかけは避難所で我慢を続ける女の子を見て
ーー震災で石巻は広い範囲で被災しました。柴田さんの家も被災されたそうですが。
柴田さん:
震災が起きた翌日、2011年3月12日から、私は家族と一緒に石巻の高校の避難所に入りました。被災といっても、家は流されましたが家族全員が無事で。家族が行方不明で探しに行った方々は本当に気の毒で大変そうでした。すぐに何かやらくてはいけないことが私はなかったので、最初は避難所のまとめ役になって、支援物資をみんなに分けたり、日中はどこの道路が通れるようになったのかなど、情報をみんなに伝えたりしていました。当時私は35歳で比較的避難所では若い方だったので、年配の人たちから非難されるようなことも多くて。皆さん日に日にストレスが溜まっていたんでしょうね。その後は、年が上の方にまとめ役をお願いして、自分にしかできないことを探し始めたんです。
柴田さん:
そんなとき、小学校2年生ぐらいの女の子と年長さんの男の子、そしておじいちゃんとおばあちゃんが一緒にいる家族が、私の目の前で過ごしていて。小学生の女の子が、すごく我慢をして生活しているのが手に取るように伝わってきたんです。
震災前、私は子ども向けの絵画教室を開いていて、実家でも剣道の道場をやっていたので、何かと子どもと接する機会が多くて。自分にできることは、“子どもと遊ぶこと”じゃないのかなと。遊び場を作る活動を避難所の中で始めました。
ーーにじいろクレヨンの原点は避難所だったのですね。
柴田さん:
そうですね。避難所にいる保育士さんや、私が剣道を教えていた石巻高校の生徒に、「手伝って」と声をかけながら始まりました。最初は、踊ったり歌ったりすることから。その後、活動時間を“お昼の配給が始まる前”と決めて毎日遊ぶようになりました。
ーー子供たちはどんな様子でした?
柴田さん:
一番多かったのは暴力で…。
ーー楽しむ感じではなかったのですか?
柴田さん:
楽しんではいたと思いますが、エネルギーがあり余っていて。抑えた気持ちを出せる環境ができて、ワーッと感情が溢れ出ているようにも見えましたね。構ってほしいから僕を殴ったり蹴ったりとかが当たり前で、自分を見てほしいっていう感情が溢れているような。だからその気持ちに寄り添うことの繰り返しでした。3歳くらいの子が死ねとか言うんですよ、信じられないでしょう。中には、能面みたいに感情が見えない子もいました。
ーー異常事態ですね。
柴田さん:
後々専門家の先生にこの状況のことを聞いたら、子どもたちの反応は当たり前の反応で、寄り添って一緒に付き合うという行動は間違っていなかったみたいで。その経験が、活動を続ける自信に繋がりました。
被災で絵を描けなくなった自分 子どもたちのおかげで再び描けるように
ーー自らも被災しながら他人の支援をする。これは並大抵のことではなかったと思います。震災がきっかけで自分自身の中で変わったことはありますか?
柴田さん:
そうですね。私は画家でしたが絵を描くことを一度やめました。書けなくなったんです。
ーーそうだったんですね。
柴田さん:
震災の風景を描こうとしたのがよくなかったのかもしれません。それが本当にきつくて。ちょっと無理だなってなったんですよね。
ーー今でも描いてないんですか。
柴田さん:
今は描いています。個展もさせてもらえるようになって。子どもたちのおかげですね。
遊び場で子どもたちが楽しそうに絵を描く姿を見ながら、楽しければいいんじゃないかと思えてきて。ここ5、6年の間で本格的に画家としての活動も再開できました。
今も続く できては壊れていったコミュニティを再生する活動
ーーその後はどのような形で支援を続けられたのでしょうか?
柴田さん:
震災後は、石巻市内には100以上の避難所があって。他の避難所も子どもたちはきっと同じ状況に追い込まれていると思ったんですよね。全国からたくさんのボランティアの方や学生が避難所に来ていたので、子ども関係のボランティアに関しては、全部私に回ってきたんです。
ーーそれはなかなか大変でしたね。
柴田さん:
コーディネートのようなことはやったことがなかったので完全に素人です。断らずに全部受けていきました。たくさんのボランティアを連れて、色んな避難所を回る活動がスタートしました。
何時に〇〇小学校の前で待っててくださいと待ち合わせをして、初めて会う方々に、子どもたちとトランプをしてくださいなどの指示を出したりも。子どもたちはとても喜んで、お兄さんやお姉さんたちと遊んでいました。
ーーもうすぐ震災から13年が経ちます。今も続けていらっしゃるのはどうしてなんでしょうか。
柴田さん:
課題の内容が変わっていったからです。当初は、直接的な子ども支援でした。自らが中心となって子どもたちに寄り添うことがメインの活動で。その後、みんなが仮設住宅に移ると、週に1回1日2時間、夕方の時間に、出張型で色んな仮設住宅に出向いて遊び場をつくるといったやり方で続けました。
柴田さん:
そのときに感じたのが、自分たちが週1で会いに行っても、子どもたちの日常は、週7日24時間あるわけですよね。この地域に住んでいる人たちが子どもたちを見守る形に変えていかないと、大人にいつも見守ってもらえるような環境をつくれないと思ったんですよね。そうした環境になるまで、長期的に自分が子どもたちと大人をつなぐ柱になる活動が今も続いています。
ーー 一緒に子どもたちを見守る大人は増えていきましたか。
柴田さん:
最初は大変でした。まずは地域の人と私が信頼関係をつくるところから始まるので。例えば、仮設の集会場を借りるときには、敢えて遊び場と一緒に大人向けのお茶会も開いたりして。そうすることで、地域の大人にも来てもらい、子どもたちとのふれあいを体感してもらう。子どもたちへの愛着が芽生えれば、多少は仮設住宅で騒いでもクレームにはならなかったり、困ったときに親以外の大人に相談できたり。ただいま、おかえりの関係ができることで、日常の中で子どもたちを見守ってくれるようになっていきます。震災から5年ほどは、地域と子どもたちをつなぐことを意識して重点的に行いました。
柴田さん:
その後は、防災集団移転を進められたり復興公営住宅ができて、次は別の地域で活動をするようになりました。せっかく仮設住宅でできたコミュニティが壊されて、また新しいコミュニティを作らなくてはいけないような状況で。仮設住宅のときと同じやり方でみんなで遊んだり食事をともにして、新たな町内会を作っていきました。
ーー町内会を新たにつくる活動。
柴田さん:
それも子ども中心で。子ども会ですね。
ここ最近までは、コロナの影響もあって活動が難しくなった時期もありましたし、今の時代、子ども会に入らない家庭もいっぱいいて。そうすると、ますます地域と子どもが断絶してしまうんですよね。そこで、大人も子どももふらっと立ち寄りやすい場所に畑をつくって、集まる機会を増やしています。畑も地域の方に貸していただいているんですよ。
ーーすごく子どもたちは楽しそうに、自由奔放に遊んでいましたね。
柴田さん:
思い切り発散していたでしょう(笑) ああいう姿を見ると嬉しくなりますね。畑も含めてにじいろクレヨンの拠点をつくったことで、たくさんの地域の人たちとのご縁もいただきました。同じ思いで子どもたちを見守る仲間を増やしていきたいですね。
“だいじょうぶ”その一言が子どもの生きる力に繋がる
ーー東北の被災した地域の子どもたちや若者の、現在の課題は何だと思いますか?
柴田さん:
自分らしくいられる場、自分が感じたことを遠慮しないで言葉で伝えられる環境が必要かなと思います。これは被災地に限らないと思いますが、避難所でも感じていたことなので。学校でも家庭でも、人に合わせたり自分の意見を言えないような空気。正解が用意されていて正解に向かっていかないと叱られる。もっと自分のことを大切にしてほしいと思っています。嫌なことは嫌って言っていいし、何もしたくなければ何もしなくていい。自分で好きなことを表現して、大人が寛容に受け入れる度量が必要ですね。
ーー私も含めて、たくさんの大人に当てはまりそうな課題です。
柴田さん:
キーワードは“だいじょうぶ”です。大丈夫だよって子どもに声をかけられる大人が増えることを望んでいます。その声かけがどのくらい地域の大人ができるのかがカギになるのかもしれませんね。
ーー大丈夫と声をかけて、子どもたちを自由にすることが大切ですね。
柴田さん:
そうです。あの日の避難所の子どもたちに必要だったことと変わらないのかもしれませんね。
柴田さん:
震災をきっかけにたくさんの新しい人たちもこの地域に住むようになりました。ボランティアで来てくれて、その後NPOを立ち上げたり、新しい事業を始めて移住した方々もいます。東北の他の地域でも起きていますが、被災地は、自分で自分の道を選択して、切り開いて生きている大人が多い地域でもあるんです。そこが希望の光かもしれないですね。
大学を出て大きな会社に就職をすることを良しとしてきた大人にとっては、そういう方々が“変な大人”に映るのかもしれません。私もその変な大人の一人ですが、子どもたちは震災を機に変な大人に触れる機会が多かった。これは特別なことでラッキーなことです。世の中にはいろんな人がいていろんな価値観があることを知って、思い切り自分の道を進んでほしいですね。
“復興のその先”とは 自分の町を自分でつくる人が増えること
ーー2031年にハタチ基金の活動が終了します。私たちは、「復興のその先を切り拓く力を、子どもたちに。」とスローガンで掲げて活動をしていますが、“復興のその先”とは何だと思いますか?
柴田さん:
自分たちの町を自分たちでつくる人材が育つこと、でしょうか。子どもたちには、本来それぞれに生きる力がある。個々の素晴らしい能力があるはずなのに、持っているものを出せずに蓋をしてしまっています。
柴田さん:
学校や塾では、勉強のできる子を量産しようとしていますが、そうじゃない能力も出せるように。そうすることで、自分の町を自分の手で良くしていこうとする若者が育って、復興の先の地域の未来が明るくなっていくと思います。
ーー今はまだその状態ではないですか?
柴田:
これまで被災地は、国や行政、他県の方々にいろんなものを与えてもらっていたせいか、自分たちで自分の地域を良くしようという思いがまだまだ薄い気がしていて。これからは、自分たちが石巻をどうしていきたいのか。大人も子どもも一緒に、地域をどんなふうに良くしていくのかを考えて行動に移していきたいです。
そのためには、今後も、地域の大人と子どもたちを繋いでいって、“だいじょうぶ”って子どもたちに言える大人を増やしていきたいですね。
ハタチ基金は、「東日本大震災発生時に0歳だった赤ちゃんが、無事にハタチを迎えられるその日まで」をコンセプトに、2011年より活動をスタートしました。2024年3月に設立から13年目を迎え、残りの活動期間は7年となります。東北被災地の団体が、ハタチ基金活動期間終了後も子どもたちを持続的に支え見守れるように。そんな思いで、これからも皆さまからのご寄付とともに支援を続けてまいります。