2021.03.25
東日本大震災から10年目となる今年。今も変わらず活動を続けるハタチ基金の助成先団体は、どんな想いでこの節目を迎えたのでしょうか。
震災直後から被災地に赴き、現在はハタチ基金の助成団体である公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンの理事として活動する奥野慧さんからのメッセージです。
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私が初めて宮城を訪れたのは2011年3月26日、震災から2週間が経った頃でした。最初に向かった仙台では、ガソリンを求める長蛇の列や、窓ガラスが割れたコンビニ、壁が崩れたビルなど、被災直後の街の姿を目の当たりにしました。
そして、2日後に向かったのが石巻市。そこは今考えても現実とは思えない、目を背けたくなるような光景が広がっていました。街の真ん中に流れ込んだ漁船、基礎だけが残った家々、倒れた電柱に潰された車、どこからか流れついた魚と街を覆う生臭さ。一瞬にして、とてつもない絶望感に襲われたのを覚えています。
それから2ヶ月間、私は「つなプロ」(様々な専門性を持つNPOが連携し、被災者とNPOの支援をつなぐ取り組み)の事務局として避難生活をする方々のサポートに関わり、2011年6月に共同代表の今井、前代表の雑賀と共にCFCを設立しました。
様々な思いが合わさって始まったこの活動ですが、私自身は、「今度は自分がやる番だ」という強い使命感を感じて動き出していました。それは、2004年に地元を襲った新潟県中越地震の後、友人が車で受験勉強をしていた姿。2011年につなプロで訪問した多賀城市の避難所で参考書を広げていた高校生の姿。この2つの光景が重なって生まれた思いでした。
あれから10年が経ちます。10年という時間は、人々の記憶を風化させる一方で、被災された方々を癒やすには十分ではない時間だったように思います。近年も、CFC仙台事務局には被災をされた保護者から様々な声が届いています。
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■東日本大震災で被災をされた保護者の声
『大災害に精神が追いつかず、当時していた仕事ができないまでに心が弱ってしまいました。今でも精神的に不安定になる事も多く、病院で処方された薬を飲んでいます。』(宮城県名取市)
『震災後、元夫のDVと子どもへの虐待が原因で精神疾患になり、震災前の1割~2割ほどしか子育てができなくなりました。家事が思うようにいかず、子どもたちに協力してもらっています。』(宮城県仙台市)
『(原発や放射能を気にして)自宅では窓、カーテンを閉めての生活、外で遊ぶことは全くなくなりました。外に出たくても出られずゲームばかりの日々でした。』(福島県いわき市)
『3歳だった娘は私に抱かれて津波から逃げた記憶を今でもしっかり覚えているそうです。家が全壊、親戚や友達が亡くなり、避難所の小学校でダンボールの中に入り、黒色のクレヨン一色で流れていく家や車の絵を描き続ける娘を見て、この子に笑顔が戻る日が来るのかと不安になりました。』(宮城県石巻市)
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■10年が経った今、生まれた課題
このように、10年が経った今もなお、被災された方々の声からは震災の影響が色濃く残っていることを感じます。
また、10年が経ち、困難な状況が長期化したことで生まれた課題もあります。近年は、喪失体験や経済困窮に加え、健康面、虐待、障害、孤立など、複合的な困りごとを抱えているケースが増えてきており、より細やかで継続的なサポートが必要になっています。
その一方、10年活動を続ける中で、積み上げてきたものもあります。
■10年前には見えなかった希望とこれからの歩み
当初、3人で始めた活動は、数千もの方々に支えられる活動になりました。1年目150名に提供したスタディクーポンは、10年で延べ3,000名以上に提供するに至りました。
クーポンを利用して就職や進学をして巣立っていった子、地元で働き、その支えになっている子もいます。また、当時被災をした子どもが、現在は学生ボランティアになっていたり、寄付者になって活動を支えてくれていたりします。
こういった、CFCを通じて東北を支えてくれている方。自らが震災で味わった苦しみをエネルギーに転化させ、今の子どもたちに寄り添う若者。これらは10年前には見えなかった一つの希望です。
私たちは、子どもたちの教育機会を保障し、地域の未来を担う者を育てることが、東北の復興に寄与すると信じ、活動を続けています。この思いは今も変わりません。これからも、東北と子どもたちの未来に向けて、歩みを進めていきたいと思います。
2021年3月11日
公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン
代表理事 奥野 慧
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