家族を失う。友達を失う。
こんなにも大きな試練を一人で
乗り越えていくことは、とても大変です。
しかし、長期にわたり
「君はひとりじゃない」と励まし、
子どもたちにやさしさを
届け続ける存在がいたら。
きっと試練を乗り越えるための原動力の
一つになれるのではないのでしょうか。
そしてきっと。
乗り越えた試練の分だけ
強さと優しさをもった大人となり、
社会の中で起こる次なる試練の解決にも
取り組める人となれるはずです。
そのようなおもいでハタチ基金は設立されました。
ハタチ基金が行う支援事業は、被災者自身が継続的に
子どもたちを支え続けられるようサポートすることを大切にします。
ハタチ基金の「ハタチ」には、
「20歳」「20年」という意味と、「葉たち」という意味があります。
木の幹(子どもたち)が育つためには、
葉(=太陽の光を養分に変える)の存在が必要不可欠。
被災した子どもたちが社会を支える自立した20歳に成長するよう、
被災地で暮らす人びとの力になるようサポートしていきます。
震災の翌日が中学校の卒業式だったので、黒板に卒業祝いのメッセージを書いている時に揺れを感じました。机の下に潜り、しばらくして、校内でサイレンが鳴ったので、先生の指示で校庭に出ました。同級生が泣いているのが分かりました。中学校が高台にあり、親が学校へ避難してきたのですが、街中が停電して、海が燃えていたのを覚えています。中学校の体育館での避難生活を送った後、同級生のはとこの家(内陸)や、友達のいとこ(岩手県盛岡に住む)の家などを転々としました。
震災後、CFC スタディクーポン提供事業のクーポンで、通信ゼミや塾をはじめました。被災して、傷ついても前向きに頑張っている人って沢山いて、全部流されちゃった漁師さんとかが、それでもやっばりマグロを捕り続けられるのって、やっばり心理的な影響が大きいんじゃないかって思います。僕はみんながポジテイプになれるような手助けが出来たらと思っています。今高校では軽音をやっていて、ベースを弾いているのですが、色々な人が苦労している中、支援された自分がきっかけになって、その輪を拡げていきたいと思うので、自分の将来像と立ち位置を考えながら生活しています。
(2013年当時の記事となります)
震災から4年。皆が一緒に「頑張ろう」と思えた震災直後に比べ、必要としている人に適切な支援を届けることの重要性は増しました。光と影の対比が明確になる中、子どもたちの心に及ぼす影響も見過ごせない状況になっていました。
5 年間で被災地の子どもたちは力強く成長しました。一方で生活環境の再建はまだ道半ば。
ハタチ基金は、震災で直接被害を受けた子どもたちへの支援はもちろん、震災に起因する子どもたちの課題や、震災が顕在化させた貧困などによる教育格差などの社会問題に取り組みます。
震災から6年。震災当時、0歳だった赤ちゃんが小学1 年生になりました。
東京電力第1原発事故で出されていた福島県内での避難指示は順次解除されつつありましたが、対象区域の約3割は帰還する事ができず、避難先での生活が続きました。あるアンケートによると、心身の影響が続いていると答えた被災者は6割、今後の生活に不安を感じると答えた人は7割以上にのぼり、子どもたちを取り巻く状況には、課題が山積していました。
仙台は全国でも待機児童数が多い地域。働きたい親御さんが安心して預けることができる保育園が必要です。
⇒ おうち保育園
震災発生時の混乱は、子どもたちの発達に大きな影響を残しました。様々な課題を抱える子どもたちへのサポートが不足しています。
⇒ みなみそうまラーニングセンター
震災の甚大な被害によって、多くの子どもたちが経済的な困難を抱え、塾などの学校外教育の機会を得られずにいます。
⇒ スタディクーポン提供事業
仮設住宅での生活や、長い県外避難生活など、子どもたちを取り巻く教育環境は厳しいままです。学習支援、心のケアが必要な生徒も多くいます。
⇒ コラボ・スクール
子どもから大人へと成長した7 年ー。子どもたちに寄り添う心理カウンセラーになりたい。19歳になった彼女は、コラボ・スクールのスタッフとして働きながら、夢を追いかけています。
2011年3月11日。
小学6年生だった私は、卒業式の練習中でした。大きな地震がきて驚きましたが、私達の学校からは津波が見えなかったため、その時は、それほど大きな事だと思っていませんでした。その晩は、学校に友達と泊まれることにワクワクした気持ちでいたほどです。
次の日、お母さんが迎えに来てくれて、全て流された女川の町を見た時に、初めて被害の大きさを知りました。同時に、何もなくなった自分の家の跡地を見ても、どうしても自分事として捉えることが出来ず、まるで別の世界の出来事を見ているような感覚でした。
4か月の避難所生活、それから約7 年間の仮設住宅暮らしの後、ようやく公営住宅に引越ししました。
コラボ・スクールには、中学1 年から高校を卒業するまで通いました。勉強をする場所があることだけでなく、親身になって自分の話を聞いてくれる大人が常にいてくれたことが、すごくありがたかったです。
コラボ・スクールに通ってくる子ども達を見ていると、当時の自分を見ているような気持ちになります。素直になれない彼らの気持ちが分かるからこそ、なんでも受け止めよう、そう思って日々過ごしています。子どもたちと接する中で、心理カウンセラーになりたいという夢も見つけました。
私もいつか、誰かの第二の親のような存在になれたらいいな。
そんな想いで今、スタッフとして働いています。
(2017年当時の記事となります)
変わり果てた町、大きな支えだった祖父の行方不明、母と別々に暮らした3 年半ー。それでも前を見据え、未来を切り開こうとする岩手県沿岸の町に住む高校2 年生の男の子の姿です。
小学2年の頃、東日本大震災が町を襲った。家ごと津波で流され、祖父の思い出の品は何も残っていない。
生まれて間もなく母が離婚したため、父の記憶はない。祖父は父のような存在だった。祖父は仕事の傍ら空手道場を開き、近所の子どもたちゃ大人約1000人に空手を教えていた。幼い頃は黒帯をおんぶ紐にして、よく背負ってもらった。休日には毎週近くの海まで釣りに連れて行ってくれた。お風呂、犬の散歩、キャッチボール・・・。何でも一緒。厳しくも暖かい祖父は、「理想の大人」だった。
震災後、被災した町では仕事を見つけるのは難しく、母は専門学校で資格の勉強をしながら働くために千葉県に引っ越すことにした。「やっぱり僕はこの町に残る。僕はじいちゃんを探す。じいちゃんが帰ってくるのを家で迎えたい。」引っ越しの日、母についていくことを断った。この町で祖母と暮らして祖父の帰りを待ちたかった。母が町に帰ってくるのは数ヶ月に1 度。母が千葉県へ戻る時は、自宅前でいつも目に浮かぶ涙がこぽれないように歯を食いしばって見送った。小学6 年になる直前にやっと町で一緒に暮らせるようになった。
経済的に苦しい中、少しでも夢に近づけるようハタチ基金の支援先であるチャンス・フォー・チルドレンに、スタディクーポンの支援を申し込んだ。今はクーポンで隣町の塾に通うことができるようになった。自宅での学習時間も増え、勉強に意欲的になった。「支援してくださっている人の気持ちに応えるためにも、精一杯頑張らないと」と気を引き締める。将来の夢は人の命を救う緊急救命士になること。消防士になった兄の姿といつも横断歩道で歩行者が安全に通行できる誘導をし、人助けをしていた祖父の姿を見てそう思った。
あれから8年。祖父の姿を思い浮かべながら理想の大人に近づけるように日々を過ごしている。
(2018年当時の記事となります)
おうち保育園 0歳~
被災7 家庭の無償受け入れと、保育ソーシャルワーク(5ケース)、
インクルーシブ保育(19人)を実施。
認定NPO法人フローレンス
みなみそうまラーニングセンター 6歳~
待機児童解消と、ひとりひとりを大切にした
関わりを目指す児童クラブを運営。延べ2,060人を支援。
NPO法人トイボックス
スタディクーポン提供事業 6歳~
403名の子どもたちにクーポンを提供。不登校生徒への支援を拡大。
大学生ポランティアは子どもと1,693回の面談を実施。
公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン
コラボ・スクール 6歳~
岩手、宮城、福島の3県で、小学生から高校生延べ28,686人に、
学びと居場所提供などを行いました。
認定NPO法人カタリバ
居場所機能を備えた学習支援と次世代育成事業 12歳~
仙台市で336回・南三陸町で42回、無料学習会を開催しました。
NPO法人キッズドア
グローカルアントレプレナー 15歳~18歳
大槌の高校生22名へ、地域を興す
アントレプレナー育成プログラムを行いました。
NPO法人放課後NPOアフタースクール
震災から10年。被災地支援のフェーズは
年々変わってきています。
ハタチ基金が目指す、
“悲しみ”の後の被災地支援。2031年のその日まで、
子どもたちを支え続けます。